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psycho 心理

心理学と鬱について

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恒常性維持機能(心のホメオスタシス)

心理的な恒常性維持機能(ホメオスタシス)が、「自分はなんてダメなんだ」と思って何かを変えようとしても、 心の恒常性維持機能が働くというのはもっともです。
狭義の恒常性維持機能は身体が単純に健康体でいようと機能することです。 自分を守ろうとするような機能である恒常性維持機能が原因で、「自分はなんてダメなんだ」と自責のストレスを感じるというのは本末転倒です。
最近では、この恒常性維持機能が心理学的に扱われ、自己啓発のような情報が出回っています。 解決策として「セルフイメージを高める」と言った類で、基準値を変更すればいいのだ、という解説がなされているのがほとんどでしょう。うまくいけばいいですが、うまくいかない場合はどうしたらいいのでしょうか。 すべての現象は、前に起こったことなどが原因となって、この瞬間に生成され、また消滅して次の原因になっています。 心理的恒常性維持機能と自責

スッタニパータ 慈しみ

スッタニパータ 慈しみ スッタニパータの蛇の章にある「慈しみ」が、わかりやすいでしょう。わざわざ読んで唱えるということはしなくて構いません。この章がもつ印象を瞬間的に想起するだけで十分です。
慈悲の気持ちを、全ての生き物・心を持った存在に、

「安らかであるように、もし苦しみがあるならば、その苦しみが取り除かれますように」

と、そのような気持ちを持って念を送ってください。
そうすると、心をもつもの、つまりは生きているものであれば、その安らぎが伝わります。安らぎは言語よりレベルの高い抽象的な印象です。情報は言語より、観念のままの方がいいでしょう。

スッタニパータ 慈しみ

うつ 苦しさの原因と結果

苦しさの原因と結果
というと、心理学といわれるように意識や気持ちばかりのイメージがありますが、認識を受け取る働きです。心理学のテキストには視覚的な錯覚なども出てきます。つまりは視覚情報をどう受け取るかというところも心理学です。五感と意識、それが送る情報を受け取っている働きのことをさします。
ここで無視しがちなのが、意識以外の五感です。
心の問題だからといって、体を無視する人がいます。しかし体からの信号も心は受け取っています。24時間体制で受け取っています。その信号は誰が送ってきているのでしょうか。
自分なのに自分以外の存在かのように非言語で訴えかけてきます。自分なのにおかしいですね。自分なのにその信号をコントロールすることができません。信号の発信を止めることはできません。しかしながら受信に関してはコントロールすることができるかもしれません。
意識は五感とは性質が違います。無形であり、自由に操作することができます。しかしながら無形故につかみどころがないかのように思えてしまいます。しかしそんなことはありません。
もっとも厄介なのは、意識の中で、「ある意識を掴めないこと」です。掴んでしまえばコントロールは可能になります。しかし、なんとなく何故かイライラする、その場合は、環境によるストレスがないのなら、確実に意識の奥底に何かが眠っています。
その意識の中の暴走、苦しさを与えるイメージに対して、解釈を変えろという人がいますが、その手法は時に使えず、また、後にその解釈変更が原因となって苦しさがやってくるかもしれません。 うつ 苦しさの原因と結果

ドグラマグラ 読解・考察

著作権保護期間が切れているため、青空文庫にあります。 ドグラ・マグラ 夢野久作 ドグラ・マグラ(1935年)以外の日本三大奇書は、小栗虫太郎氏による「黒死館殺人事件」(1935年)、中井英夫(塔晶夫)氏による「虚無への供物」(1964年)
なぜ「気が狂う」「読むと精神がおかしくなる」というフレーズがよく飛び交うのでしょうか。その原因はわかっています。錯覚が取れかけるからです。よくわからないままに、みんなの意見を寄せ集めて「気が狂うらしいよ」と多数決のような決定の仕方はやめておいたほうがいいでしょう。せっかくなので、本文の内容に少しだけ触れましょう。ただ、これは内容の一部について、しかも少しだけ触れているだけですから、「内容の全部をわかったような気分」にはならないでください。 気が狂うのではなく、読んで意味がわからなければ、気が狂っています。これを読んで頭がおかしくなるのではなく、元々頭がオカシイ状態で、それが取れかける、その時にクラクラして認識がぐらつきます。しかし、それまであたりまえだと慣れ親しんできた認識の方法、解釈の方法、自我という視点が外れかけます。 本の内容を真に受ける、受けないということをいう人がいるようですが、これは実際に気が狂っている証拠です。作品がフィクションだからといって、内容の理屈までフィクションとは限りません。何をもって気が狂っていると言えるのか、それは自我という錯覚です。それが主軸だと思っている点につきます。
ドグラマグラ 読解・考察